寂しさを飼ったまま生きるということ。

会いたいと思うことはいまだによくあるし、ときどき外を散歩しているダックスフントをみると、ああ、また、できれば、ともおもう。

一年前のあの日から、心に小さな寂しさを飼ったまま生きている。どん底に悲しいことはもうないけれど、それでも、思い出しては、ときどき泣ける。

先週実家に帰って、母親に、「ちょうど一年前だね」と話したら、それだけで涙が出そうになった。母は、「え〜!こんなに暑い日だったっけ。一年早いわね。ああ、誕生日は覚えていたのに」と言う。

どんなに願っても、また、彼女とともに過ごせることはないし、いつか天国で会えるなんて保証もないけれど。それでも、いつかまた会いたい。

実家に帰った時、なんとなく、確かに、そこに、きょうは、いるような気がした。私ひとりじゃないきがした。もしかすると帰ってきてるのかしら。くすんだオレンジ色の冷たいソファで涼んでいただろうか。

一年はあっという間だ。

彼女がいなくなったかわりに、あれから私は寂しさを飼ったまま生きている。その寂しさを埋めようとも思わないし、うまる予定もないけどさ。でも、ときどき思い出してはまだ泣けるよめいちゃん。会いたいよ。どうやったら会えるんだ。夢の中に今夜くらい出てきてくれてもいいよ。暑いけど、その毛むくじゃらわしゃわしゃするからさ。あなたの好きなおやつ用意して待ってるよ。めいちゃん。